『1of1』 Vol.1 オカモトレイジ
「遊んでるだけ昔から」
「1of1」とは世界にひとつしかないもの/ことを指す言葉です。日本で「1of1」な活動をしている人たちに話を聞いていきます。いろんな人たちのいろんな言葉が記事として連なった時、バラエティ豊かでかっこいい日本の文化の層として表現できるのではないかと思い、連載企画を立ち上げました。
1回目は個人的にお世話になっているオカモトレイジさんに登場してもらいます。彼はOKAMOTO’Sのドラマーとして絶大な人気を誇っているだけでなく、自らさまざまなイベントを企画し、DJとして日本全国飛び回り、世界中のクリエイターとも繋がり、さまざまなクリエイティブを発表しています。今回はそんなレイジさんのルーツとクリエイティブの根源にあるものを探っていきたいと思います。
文:宮崎敬太 写真:和田貴光
「GLUE」とKANDYTOWN
——レイジさんにしっかりとお話を伺うのはかなり久しぶりですね。
そうですね。前回取材してもらったのがスルギ(Red Velvetのメンバー)の誕生日だったからあの日のことはすごく覚えてるんですよね。
——朝日新聞のウェブサイトで企画した「20代ミュージシャンの譲れない信念」でしたね。あれが2018年です。まだバンドのイメージが強かった気がします。DJ活動が本格化したのはいつ頃ですか?
DJ自体は結構前からやってました。「YAGI EXHIBITION」*の前身となった「GLUE」というパーティを始めたのが2012年なんで。その前からもちょっとやってたんです。2018年に取材してもらった時は「YAGI EXHIBITION」を始めたばかりくらいかな。世の中的には、バンドやってるけど、クラブイベントも定期的にやってる人みたいな感じの認識だったでしょうね。そういう意味ではこの6年でやってることはかなり幅広くなりました。
*オカモトレイジさんらが主宰するイベント「YAGI EXHIBITION」は、ジャンルや世代を問わず、毎回さまざまなミュージシャンやアーティスト、ブランドなどを招聘している。
——それは「YAGI EXHIBITION」が大きかった?
いやKANDYTOWNですね。ワーナーミュージックに売り込んで契約を取ってきたんです。それ以前にもアーティストやレーベルから相談されることはありました。でも俺が本格的に一歩踏み込んだ印象を周りに与えたのは、KANDYTOWNでディレクターというかA&Rみたいなことをしてからだと思います。
——KANDYTOWNの1stアルバム『KANDYTOWN』が出たのが2016年の11月2日でした。意外だったのは、レイジさんが所属するソニー系列のアリオラジャパンではなく、ワーナーミュージックジャパンからのリリースということでした。
ね(笑)。俺の周りのスタッフはバンドに強い人たちが中心で、KANDYTOWNのあの感じとか空気感はさすがにわからないと思ったんですよね。
——あの頃のトレンドとは完全に違うことをやってて、大所帯で、しかもかっこいい人がいっぱいいるっていう。当時は情報もなかったし、僕も「この人たちはなんなんだ!?」って感じでした。
そうなんですよ。だからあの感じがわかる人がいる企業に話をしに行きました。そういう意味では「GLUE」の経験がデカかったんです。「GLUE」を開催するとき、いくつかの企業に協賛していただいたんですけど、それこそ有名な企業であってもちゃんと話せば俺なんかの話でも聞いてくれるんだって思えたんです。それが成功体験になって、色んな企業に気負わず提案しにいけるようになったんですよね。
——レイジさんと企業コラボで思い出すのはYAGI EXHIBITION×KANGOLで制作したニット帽、ウサ耳ビーニー(2021)。
実はあのビーニーは2シーズン目なんです。最初のコラボの時にも提案してたけど「さすがにオリジナルのボディは作れない」って却下されちゃって。すでにある型に刺繍入れることはできるよって話になったので、最初の時はRUN-DMCみたいなベルハットにヤギの刺繍を入れて、前後で被れるやつを作りました。そしたら結構成績が良かったんで、2シーズン目もやれることになって、しかも本国のKANGOLから許可が下りて、オリジナルボディで作れることになったんです。
——最初にウサ耳ビーニーを見たときすごくびっくりしましたが、今年(2023年)の頭にNewJeansも「OMG」でウサ耳コーデをしていました。あれを見て「あ、レイジさんが早かったんだな」って納得したんですよね。
まあ、偶然ですよ。発売した時期にたまたまレイヴカルチャーがファッション的にリバイバルしつつあったってだけ。たぶん1シーズン目にウサ耳作ってたらコケてたと思う(笑)。
——ちなみになんでウサ耳のビーニーを作ろうと思ったんですか?
ちっちゃい頃からああいうビーニーを被ってたんです。俺としては竹下通りにいるような子が面白がってくれたらいいなくらいの感覚でした。ウサ耳の時はまだコロナ禍で、だからこそ海外ロケでルックを作りたいと思ったんです。だから韓国の友達に「かっこいいのを撮ってほしい」って丸ごとお願いしました。
——シムジェ(@eztag_)さんとヘジン(@myokahara)さんですよね。
そうそう。まだ日本を出られない時期だったから、2人に全部仕切ってもらったんです。モデルはThug Clubってブランドをやってるミンくん。その段階では会ったことなくて。でもみんないわゆる韓国の先っちょ系のクリエイターです。
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誰がどこから来たかとか、何人かとか、何語喋ってるかとかどうでもいい
——レイジさんはなんでいろんな韓国のクリエイターと繋がっているんですか?
俺もよく覚えてないんですよ(笑)。いろいろ複雑に交差してるんですけど、まず俺が2016年くらいから韓国カルチャーにハマっていろいろディグしてる時、きゃりーぱみゅぱみゅの『PONPONPON』をサンプリングしてるFuturistic Swaverってラッパーを発見したんです。あの曲(『PONPONPON』)って2011年に出てるんですけど、2016年の段階でリバイバル的にサンプリングしてることに衝撃を受けてインスタのストーリーにあげたんですね。そしたら本人から「サンキュー」的な連絡が来て。俺は昔からきゃりーちゃんと友達だから「本人にも伝えるね」みたいに返信したら、彼がきゃりーちゃんのガチファンだったことが判明したんです(笑)。
——リバイバルとかじゃなくて、純粋なリスペクトだった、と。
そうそう。とはいえJ-POPをトラップの文脈で解釈しちゃうのはマジでヤバいと思ったんです。後に彼らが日本にライブしに来た時に繋がって。で、俺、その頃からヒップホップの現場でK-POPかけまくってたじゃないですか。そしたらK-HIPHOPの来日公演にDJとしてめちゃめちゃ呼ばれるようになったんですよ。現場で会って、話して、インスタを交換して。そうすると「Futuristic Swaverと繋がってんだ! 俺、あいつと地元一緒なんだ」みたいなのが各所で起こって、どんどん広がって行ったんです(笑)。で、そのラインとはまったく別で、VerdyくんのGirls Don’t Cryが2017年に韓国でPOP UPをして、そのアフターパーティーにkZmとBIM、YouthQuake、tokyovitaminとかが出るっていうから俺も付いて行ったんです。
——レイジさんの唯一の渡韓体験(笑)。
韓国にめっちゃ友達いるのに(笑)。その時、BIMが梨泰院にあるWARPED.ってセレクトショップに連れてってくれてSOUND SHOP Balansaのキャップを買ったんです。まずデザインが好きだし、ロゴに漢字で「釜山」って書いてあるし、韓国来た感もあるし最高だなって。めちゃ気に入って日本でいつも被ってたら、オーナーのジフン(@balansa)さんからインスタで連絡が来たんですよ。後々知るんですけど、ジフンさんはGirls Don’t CryのPOP UPを企画したMAKE-1(@pay_billz)さんのマイメンで。でも実際に会えたのは結構後。渋谷パルコがリニューアルオープンして、ジフンさんがシムジェを連れて日本に来た時。コロナの直前かな。
——韓国のアンダーグラウンドなヒップホップの人脈と、ストリートカルチャーの人脈が同時進行で広がっていったんですね。
ですね。YouthQuakeのメンバーで、CarServiceってブランドをやってる橋本奎って友達がすでにシムジェと仲良しだったので、一気に距離が縮まった感じです。
——濃いなあ(笑)。
俺の体感ですけど韓国は横のつながりがすごくて。1人と友達になるとどんどん広がっていくんですよね。でもこれもタイミングだと思います。俺がいろんな韓国のラッパーたちとつながったのは「SHOW ME THE MONEY」*がめちゃ盛り上がる前だったんです。
*韓国のケーブルテレビ局Mnetにて放送されているラッパーのオーディション番組。2012年から2021年まで10シーズン制作された。
——2010年代後半にあの番組が韓国のお茶の間でも人気になってラッパーのステータスが飛躍的に高まりましたよね。
別にインスタのフォロワー数なんて気にしないけど、ほんのちょっと前まで超無名だったラッパーのフォロワーがいきなり何十万人になったりするのをリアルタイムで見られたのは貴重でした。それにかっこいいアーティストを現地のタイム感でいっぱい教えてもらえたのもデカかった。あー、でも一番最初に仲良くなった韓国の友達はヒョゴのオヒョク(@hyukoh2000)ですね。
——そうだったんですね!
2017年にヒョゴがnever young beachとツーマンをしたんですよ。俺は普通にヒョゴが好きで、ネバヤンとも古いから普通に観に行って、打ち上げに行って、一緒にボーリングして、みたいな。
——レイジさんのコミュニケーション力の高さにはいつも驚かされる。
どうなんすかね。自分ではマジでわかんないっす。俺からすると、誰がどこから来たかとか、何人かとか、何語喋ってるかとかどうでもいい。宮崎さんとはクラブで知り合って、話すようになって「あー、こういうの好きなんだ」みたいなとこから仲良くなっていったじゃないですか。それと同じ。海外の友達から日本でこんなことしてみたいって相談されたら助けるっしょ。
——でもイベントするにもお金がかかるじゃないですか。
平日ならクラブも空いてるし、探せばライブハウスもある。コロナ禍を経て俺自身いろいろ気付かされたんです。どんな時代であれ状況であれ、現状をポジティブに捉えること、そしてそういう思考に持っていく努力が必要だって。とはいえ、やってるほうとしては「(イベントとして)これ形になるのかな?」って意味で不安になることは多いですね(笑)。特に平日のイベントに関しては、あまり知られてない人とやることが多いから。ちょろっと人が来て、お酒もちょっと出て、お店の人も喜んでくれたらいいな、くらいの気持ちでいます。それに蓋を開けてみたらめっちゃ人来て、呼んだ人もお客さんも喜んでくれることが多いんですよね。
SIMI LAB『Walk Man』の衝撃
——レイジさんからはいつもDIY精神を感じます。
世代的なところもあると思います。俺らって2000年代後半にバンドを始めているんですけど、当時はまだデジタル環境が全然整ってなかった。ネットもそこまで普及してないし、YouTubeも、Twitterも、スマホもない。SoundCloudはなかったけど、ギリギリMyspaceはあった。Macもデジカメも今より高くて、10代のガキが手軽に持てるものじゃなかった。だからレーベルに所属する必要があったんです。そうじゃないとMVなんて作れない、みたいな。それが常識として刷り込まれてました。音楽で活動するなら企業にサポートしてもらう必要があるって。
——ハイスペックなマシンじゃないとPhotoshopやIllustratorですら使えない時代でしたもんね(笑)。
そうそう。あの頃ってMVはスペシャとかエムオンみたいなCSで観るものだったじゃないですか。でも2010年代になるとちょっとずつ変わってきて。そこでデカかったのがSIMI LABの『Walk Man』のMVだったんです。あのMVはメンバーのQNが自ら撮影/監督して、しかもYouTubeにアップしてた。「全部自分たちでできるんだ」ってことがものすごい衝撃だったんです。
——レイジさんは10代からQNと繋がってたんですもんね。
そうですね。SIMI LABは本当にデカかった。あとグループの中にラッパーでもトラックメイカーでもDJでもないMA1LLがアートディレクターとして参加してたり。KANDYTOWNとか俺と同世代の周りのやつらはみんなSIMI LABに食らってました。
——当たり前じゃなかったことが当たり前になるのを目の当たりにした的な。
当時のことをQNに聞くと「自分らでやるしかなかった」って。機材とかも自分たちでなんとか買えるくらいの感じになってきて、ネットインフラも整ってきて。やろうと思えばなんでもやれるっていうのを気付かされた世代。その感覚があるから、俺はなんでも自分でやっちゃうのかも。
——ちなみにレイジさんが初めてSIMI LABを見たのはいつ頃だったんですか?
高校2年生くらい。2008年とか? 町田とか、向ヶ丘遊園とか、下北沢のガレージってライブハウスとかでよく一緒にイベントやってましたね。
——QNと初めて繋がったのは?
それはKANDYTOWNのYUSHIの家です。みんな玄関から入るんじゃなくて、いきなりYUSHIの部屋の窓から「うぃす」って入るんですね。そしたらある日、知らない子がYUSHIの部屋に1人でいたんですよ。「こんばんは。あの……YUSHIっていますか?」「あ、たぶん今上の部屋にいるっぽいです」「じゃあ見てきますね」みたいな出会いでした(笑)。
——(笑)。
10代の出会いはほとんど全部YUSHIがきっかけです。俺らの頃って「高校生ラップ選手権」の遥か昔。ラップやってる高校生なんてマジでいなかった。YUSHIはB-BOYっぽい格好してるやつに片っ端から声かけてました。あと放課後はよく町田にいたんです。高校が近かったので。KANDYTOWNのメンバーは10代の頃よく町田でライブしてました。で、SIMI LABのメンバーは相模原とかで結構近いから、QNがOMSBやGIVVNを連れてきたりして、自然と混ざり合っていった感じでしたね。
——良い話だなあ。
モニホ(MonyHorse)がIOとやってる『TOKYO KIDS』(DJ TATSUKI)って曲あるじゃないですか。まさにあれなんですよね、俺ら。「遊んでるだけ昔から」って。もしかしたらみんな知ってるかもしれないけど、(『TOKYO KIDS』の)IOのヴァースに「知ったフリしろさもなきゃ大怪我」ってラインがあって、次のモニホのヴァースで「いつもhungryなオオカミ」ってラップしてるんですよ。たぶんこれBUDDHA BRANDとSHAKKAZOMBIEが一緒にやった大神の『大怪我』のことだと思うんです。この前、それに気づいてブチ上がってましたね。
——『TOKYO KIDS』のエピソードは、さきほどの「誰がどこから来たかとか、何人かとか、何語喋ってるかとかどうでもいい」と繋がりますね。
うん、まさにその感覚です。マジで昔から遊んでるだけなんです。
父とYUSHI
——レイジさんのようにバンドをやりながらDJをする人って少ないですよね。
昔はいましたけどね。昨日知り合いから聞いてびっくりしたんですけど、トランスのDJのYOJI(YOJI BIOMEHANIKA)さんって方、もともとLAUGHIN’ NOSEのベースだったらしくて。
——知りませんでした!
俺の家にも父のターンテーブルがあったので、クラブミュージックやそういうカルチャーには割とちっちゃい頃から触れてました。俺の父親はTHE PRIVATESってバンドでヴォーカルやってるんですね。で、なんかこの前、俺、ゆるふわギャングが主催するレイヴにDJで出たんです。場所が関東近郊の山奥で「足が無くて困ったなあ」と思ってた時、たまたま父と話してたら同じ日に同じ方向のさらに奥でライブがあったらしくて。行きも帰りもピックアップできるよって言われたんだけど、父のスケジュールだと開演の12時間前に着いちゃうから結局別の友達の車で行ってきたんですよ。
——ゆるふわギャングのレイヴすごかったらしいですね。
めっちゃ最高でしたよ。翌日俺は家に帰って、父がお祖父ちゃんとして孫に会いに来たんですね。で、昔のレイヴのこと聞いてみたんですよ。「SNSもカーナビもない時代にどうやって会場まで行ったの?」とか。そしたら「普通に地図みながら音の鳴るほうに向かっていくだけ」とか(笑)。
——というか、なんでレイジさんのお父さんはレイヴに詳しいんですか?
父は1991〜92年にロンドンでレコーディングした時、夢だったロンドンのパブでライブをしたらしいんです。
——80年代から日本で活動されてたUKロック好きのバンドマンにとって、ロンドンのパブは夢の舞台ですね。
そうそう。目標というか、ミュージシャンとして一度は経験してみたかったみたいな。でもやってみたら意外と東京と変わんなかったらしくて。普通にやれると思ったって。で、東京に帰ってきて、ロンドンでめちゃくちゃ頑張って作ったアルバムの曲を歌っても全然反応なくて、結局定番曲しか盛り上がらないことに「これってどうなんだ?」って疑問を抱いたらしく、1993〜94年の丸2年間ひとりでロンドンに行って、いろいろ吸収して、その後、日本でディスコじゃない、クラブが出来始めた頃、最初期のDJとして活動してたらしいんですよ。
——おおお、マジですか……。
俺はそういう父に1995〜96年にどっか山奥で開催されたレイヴに連れて行かれてるらしいんですよね。さすがに鮮明には覚えてないけど、ゴアトランスがかかる場所に行った記憶はかすかにある(笑)。
——あ、その話が最初のKANGOLのウサ耳ビーニーと繋がるわけですね!
そうなんです。だからたぶん今の子たちが言ってるレイヴとは違うレイヴを俺は知ってるんです。
——90年代前半に、本当にパンクな人たちが一気にトランスに流れて行った時期があって。大学生だった僕は都市伝説としていろんな山奥で起きた噂話を聞いてました(笑)。
本当に本当のハードコアの人たちですよね。山口冨士夫さんや伊藤耕(THE FOOLS)さんみたいな。2人とも父の直系の先輩にあたる人たちなんです。俺からすると冨士夫さんはお祖父ちゃんみたいな感じ。何回かセッションもさせてもらいました。
——レイジさんが90年代の日本のレイヴカルチャーのことまで知ってることに今マジで衝撃を受けてます。
だから「BURST」みたいな雑誌で冨士夫さんの昔のインタビュー記事を読むが大好きなんです。実際の話し方も知ってるから、この話題をどんなふうに喋ってるかすぐに頭に浮かぶ。……ちょっと話逸れちゃったけど、そんなこんなで家にはいろんなクラブミュージックのレコードもあったし、DJの機材はいろんなボタンがピカピカ光ってて楽しかったんですよね。
——だからヒップホップにも自然と入っていけたんですね。
そうです。でも意識的に聴くようになったのはYUSHIの影響です。それは間違いない。父の影響もあって生活の中でいろんな音楽を聴いてきたけど、BUDDHA BRANDみたいなのは聴いたことがなかった。すごい衝撃でした。さんぴんキャンプのVHSをYUSHIが持ってて「これだけはマジで見なきゃダメだぜ」とか言って(笑)。
——レイジさんにとってもYUSHIさんはものすごく大きな存在なんですね。
とてもつもない。逆にあの人と出会ってなかったら、俺自分がどんな人生を歩んでたか想像できない。それくらいデカい存在です。
オカモトレイジ(OKAMOTO’S)
1991年生まれ、東京都出身。
中学校の同級生で結成された4人組ロックバンドOKAMOTO’Sのドラマー。
デビュー当時は年間平均100本を超えるライブを展開し、海外公演等も積極的に実施。
2023年5月24日には、アニメ「Dr.STONE」エンディングテーマ曲「Where Do We Go?」をリリース。
11月からはロックバンドながら、異色ともいえるトークとアコースティックをメインとしたTour「出張!オカモトーク Acoustic/Talk Tour 2023-2024」を全国12公演開催中。
その活動の勢いは止まることを知らない。
ソロ活動としては、2022年秋に映画「もっと超越した所へ。」に本格演技初挑戦として出演するなど、メジャーシーンで活躍する一方、DJやエキシビション「YAGI EXHIBITION」の主催も務める。
Instagram:https://www.instagram.com/okamotoreiji/
X:https://twitter.com/OKAMOTOREIJI
宮崎敬太
1977年生まれ、神奈川県出身。音楽ライター。オルタナティブなダンスミュージック、映画、マンガ、アニメ、ドラマ、動物が好き。WEB媒体での執筆活動の他、D.O自伝「悪党の詩」、輪入道自伝「俺はやる」(ともに彩図社)の構成なども担当。
Instagram:https://www.instagram.com/exo_keita/
X:https://twitter.com/djsexy2000
撮影協力:
ADULT ORIENTED RECORDS
東京都渋谷区元代々木町10-7
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